本書は、阪神の監督にとって必読の禁書ではなかろうか。そして「阪神の監督」を理解しようと欲するプロ野球ファンにとっても、絶好のテキストブックだ。

僕自身、プロ野球の監督稼業は不思議な商売だと少年時代から思っていた。
自分がその頃に見た監督は少なからず(失礼ながら、本書に気鋭の選手として登場する金田正泰や後藤次男諸氏も含まれるが)、彼らの現役時代を知らないから、子供の目には、甲子園のスタンドにいるおっさんと同じようにしか見えず、なんで監督やってんのやろ、なんて思って見ていたものだ。阪神に限らず、大洋でいえば、秋山登や別当薫もそんな感じで見ていた。

ただし、大洋の監督なら昼行燈と揶揄されて済むが、阪神となるとそれだけでは済まない。僕が甲子園に住んでいた当時という前置きもつくが、監督の振る舞いが、当時からパイン飴のように筒抜けで、ブンヤに監視される。人気の選手が活躍すれば、選手の手柄、彼の調子が悪くなると監督の過失、と伝わり方は偏っていた。

大人になるに従って、プロ野球を見続けていると、だんだんとわかってくる。プロ野球チームの監督になるには、人物や野球人として傑物であることはもちろん、野村・落合の域に達するには、加えて卓越した実績と言語化が必要だと悟る。
そして結果で評価されることも。




そうした“監督”に対する先入観から、藤村富美男を通して、無能の老人と描写された導入部分の、僕的にも初見の岸一郎は、実に事前の予想通りの人物だった。針のムシロのベンチに座っていれば、おのずと痔にもなるだろう。


その後、著者独自の筆致と捜索で、藤村富美男を巡る阪神のお家騒動を描きながら、それをひとつの因果として、徐々に謎の老人の正体に迫っていく。

その過程で、まるで実は岸一郎が、松木謙治郎や藤村と対峙した沢村栄治だったのか、と思わせるような展開は、大陸へのロマンとともに目が放せない。
松木が大陸のチームで、拙いノックの故郷の先輩の武勇伝に接しなかったとすれば、口惜しいが、それでこそノンフィクションだと、改めて人生のやるせなさにも気付かされる。

そしてラストには、人生の本懐を、老境に接したときにいかに果たすかと、はからずも自問自答してしまう自分がいた。


狭隘な平地に沿って大阪と神戸を一本路で結ぶ阪神電車とは裏腹に山あり谷あり、紆余曲折あり。エンタメ・ノンフィクションと銘打つにふさわしい一冊だ。

タイガースファンなら、あらゆる世代の読者が、松木謙治郎から岡田彰布に至るまで、歴々の監督を思い出して、それぞれの悲喜交々を懐かしんだのではないだろうか。
タイガースファンならずとも「おつかれ生です」と音頭を取った、もしかしたら監督になっていたかもしれない平田ヘッドコーチの満面の微笑みが、彼自身の心の底からの安堵の笑顔であったのかもと納得してしまう。

そらそうよ。
上方では、時の内閣総理大臣よりも阪神の監督の知名度のほうが高いのだから。