「長野県から来ました、牧秀悟です!」
2021年4月4日、横浜スタジアムで行われた対広島東洋カープ戦。
プロ入り初となったヒーローインタビューで、ルーキー・牧秀悟は確かにそう言った。
お立ち台で自分の地元を紹介する新人選手、初めて見たなあ。
「長野県から来ました」
珍しい内容のその第一声は、嬉しいシーズン初勝利の余韻と共にずっと私の心に残り続けた。ルーキーがお立ち台で紹介したくなるような地元って、一体どんな所なんだろう。
ある日ふと思い立ち、SNSで牧の故郷である信州中野について調べてみるとこんな写真が目に留まった。
「ベイスターズ 牧秀悟選手 最多安打・打点王2冠おめでとう」
上から下まで手作り感満載の大きな応援看板が、中華料理店の軒先に出ている。
えっ、なんだこれ?
いくら地元とはいえ、見た所いたって普通の飲食店と牧秀悟に一体どんな繋がりが?
気になる。ベイスターズファンとして、ものすごく気になる。
あのヒーローインタビューから3年近く経った2024年1月、私は思い切ってこのお店を訪ねてみることにした。
東京駅から北陸新幹線と長野電鉄を乗り継いで、およそ3時間。
長野駅から離れていくほどに畑が増え、冬空が広がり、遠くに連なる山並みが近付いてくる。
やがて目的地の信州中野駅に降り立つと、写真と同じ軒先がすぐに見えてきた。
お店の名前は、一楽(いちらく)食堂。
一楽食堂の応援看板
聞くところによるとここ一楽食堂は地元で愛され続けて60年以上経つお店で、牧秀悟は家族と共に何度か訪れたことがあるという。
なるほど、見渡してみると牧本人からの直筆サイン色紙、彼に関する新聞記事の切り抜きや入団当初からの球団公式グッズ、選出された侍ジャパンのグッズなどがレジ裏の壁一面に並んでいる。これらの品々はファンの方々のご厚意で持ち寄っていただいたものも多いんです、と女将さんは紹介してくれた。
さっそく単刀直入に、あの看板を作った理由を尋ねてみる。
「こっちは横浜主催試合の中継が無いんです。地上波放送があるのは巨人戦しかないから、当然周りも巨人ファンばかりで。でも、秀悟くんが指名されたおかげで皆さん一気にベイスターズファンになったんですよ。だけど試合の詳しい結果はネットで調べないと出ないから、実際の活躍は皆さんよく知らないの。だから、秀悟くんが横浜で活躍しているのはこんなにすごいことなんだよって知ってもらうために看板を作ったんです。うちは駅前で目立つから。あと、他の選手を応援している方に言われたんだよね、ここには垂れ幕とか特に何も無いんですねって。それもあって」
しかし、なぜ垂れ幕やポスターでなく看板にしたんだろうか。
「それしか頭に無かったんだよね。たまたま看板の台があったせいもあるのかな。元々は麻婆ラーメンとか、お店のメニューを宣伝するために作ったもので。で、知り合いのところで看板を作っていると知ってたから、そこに頼んだの」
そんな経緯で生まれた手作りの応援看板は、牧の活躍とともにその内容も変わっていった。
「一番最初はドラフト2位指名、その後が入団。そしてこれは幻になっちゃったんだけど、本当は『新人王おめでとう』の看板もやろうとしてて。でもあの時カープの栗林さんもすごくてね……待ってる間に作ったら(新人王に)なれるんじゃないかと思って、先に作っておいたの。でも叶わなかったから『新人特別賞おめでとう』って後から書き足した看板にしたんです」
そしてやっぱり、WBCの侍ジャパン入り効果はすごかった。
牧秀悟は野球ファンだけでなく、長野に住む多くの人が知る選手となる。
「秀悟くんを知って欲しくて始めたから、看板作りはもういいかなと思ったの。元々ウチと何かあるからお店にお客さんを呼びたいとかじゃ全くなくて、ただ純粋に応援したくて始めただけだし。それでも、また変わったねって楽しみにしてくださっている方もいらして。だから今後も何かあったら、全部やるつもりでいて。もちろん秀悟くんに迷惑がかからないようにね」
女将さんは度々そう繰り返していた。
実際に、数多くあるお店のメニューの中には一つも牧の名前を冠したものは無い。
ひたむきにただ彼を応援したい気持ちが伝わってくる。
まだまだ続く牧の活躍と共に、看板の手書き文字も増えていく。
交流戦優勝、交流戦優秀賞受賞、オールスター出場……。
変わりゆく看板の写真を見せて頂きながら、引き続きお話を伺う。
「チームの4番になって、侍ジャパンにも選ばれて。でもいざこの信州中野に来るとね、普通の兄ちゃんなんだよ。今までと変わりない」
以前ここに牧が訪れた時のことを女将さんはしみじみと思い返す。
「この間来た時に、もうアンタはおばちゃん達の生き甲斐なんだからね、頼むよ~って言ったら『うーん……頑張る!』なんてガッツポーズ付きで言っててさ」
何故だろう、なんとなく想像が出来てしまう。
幼い頃の牧は、ちびっこ野球チームのお母さん方にそれはそれは可愛がられていたそうだ。そんな人懐っこくて明るい男の子がそのまま大きくなったような。ここでの牧は、そんな気さくな兄ちゃんなのがよく分かるやりとりだ。
「本当に生き甲斐なのよ、何も無い田舎だから」
女将さんは恥ずかしそうに最後にそう付け足した。
いや、女将さん。ここには牧秀悟と一楽食堂があるじゃないですか。
一楽食堂の味と牧秀悟の大切な場所
そういえば、牧はここの料理で何かお気に入りのものはあるんだろうか。
「特にこれといって決まってないみたい。毎回違うかな……」
確かにメニューに載っているものはどれも街中華でおなじみのものばかりで、何を選んでも美味しそう。今回私は地元の方におすすめされた、揚げそばを選んでみた。
中太麺のパリパリとした揚げそばの上に、白菜・もやし・人参・大ぶりのきくらげと細く切った豚肉が入ったあんが気前良くかかっていて、写真よりも具が多く見える。仕上げに乗せられた錦糸卵の明るい黄色がとてもきれい。
箸で一口分持ち上げると、ふわっと湯気が立ち上る。
ふうふうと冷ましてほかほかの中華あんと麺を絡ませて頬張ると、たっぷり入った野菜の甘みが優しく口いっぱいに広がって、ほっとする味わい。冷え切った身体が内側からじんわり暖まってくるのを感じる。おいしい!
3年前のヒーローインタビューでなぜあの時牧が地元の名前を出したのか、今なら分かるかもしれない。
帰ってくる度に変わっている手作りの看板を見て嬉しさと照れ臭さで笑い、中野に帰ってきた時には一楽食堂で食べるいつもの味にこれこれ、と安心して。
五感で故郷を感じるひとときは、牧にとって大切な心の支えなんだろう。
だからあの時、自分は長野から来ました、と彼自身の声で私たちに伝えたんだ。
そしてつい最近、先日4月26日のヒーローインタビューで牧はこんな風に話していた。
「今シーズン入ってここまで、選手も悔しい思いをしていますけど、全国の横浜ファンの皆さんもすごく悔しい思いをしていると思います……」
そう、『全国の』横浜ファン。牧はお立ち台に立つ自分の目の前にいるファンだけでなく、中継画面の向こう側にいるファンへも気持ちを向けている。
きっとそこには、故郷で応援している一楽食堂の女将さんのような方々も含まれているのでしょう。
ご馳走様でした、また来ます!
女将さんに見送られながら、お店を出る。
いつか近い将来、一楽食堂の看板に「横浜DeNAベイスターズ・牧秀悟選手、優勝おめでとう!」と大きく書かれる日がやって来ますように。